体験する芽を、自ら摘む必要はまったくない
欲しいものがあるならば、今あるものを売っぱらってでも手に入れるべきである。自分が明日も生きている保証はどこにもない。我慢する必要はない。その瞬間、欲しいと思ったのなら、手に入れるべきである。
欲求は、体験への最短距離である
私が大金持ちであるならば、金に糸目をつけず、体験のために欲求をぶつけてしまえるのだが、そういうわけにはいかない。限度がある。限度があるならどうするか?今あるものを売っ払うか、借金をするしかない。馬鹿馬鹿しいと思うかもしれないが、欲求には素直に従うべきだと私は思っている。全ての行為は体験である。新しい服を体験したいのである。新しい鞄を体験したいのである。新しい自転車を体験したいのである。体験できない事の方が私にとっては恐ろしい。しかし、当然買った値段で売れるわけがない。大抵は買値の20%になれば良いほうだ。それでも次から次に体験したい題材が押し寄せてくるのだ。Aを買って体験したら、つぎはBを体験したくなる。しかし金がない。だからAを売って、Bを買う足しにする。だからこそ私は浪費家のミニマリストなのだ。